聖書のメッセージについて

私が毎年参加している教会のイベントのひとつに春の聖会というものがあります。これは札幌の2つの教会と1つの小樽の教会が一緒になって合同でクリスチャン同士の交流や聖書の勉強をしたりするものです。で、そのなかでこういうメッセージがありました。

被造物 - X + Y = この世 …… (ローマ書3章)
あなた + X - Y = 回復された人生 …… (ローマ書12章)
s.t. X = {x | 神さまに属すること}, Y = {y | 悪魔に属すること}

簡単に説明すると、神さまがいなくて、悪魔に支配された人生というのは、お互いがだましあいをしたり、自分の利益のために他人を陥れたり、場合によっては殺してしまったりすることがたくさんある世界になってしまうということです。でも、悪魔の支配から逃れ、神さまにゆだねる人生というのは、豊かで価値のある人生を送ることが必ずできるというものです。

神さまの居ない人生というのは寂しいものです。すべての価値基準が自分になるため、自分を中心にしか考えられなくなるのです。自分の利益になることならば相手を陥れてもかまわないという考えになってしまいます。

「彼らの足は血を流すのに速く、
彼らの道には破壊と悲惨がある。
また、彼らは平和の道を知らない。」(ローマ書3章15-17節)

でも、そういう悪循環のなかにいる生活ではなかなかよいものは生み出せません。そういう状態では「とりあえずは生きていても、本当に『生きている』とはいえない状態」になってしまいます。神さまにゆだねる生活をすれば、その悪循環から抜け出せます。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、
あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ書12章1節)

礼拝というのは毎週日曜日の午前中に教会で行われるだけの儀式だけではなくて、自分の存在すべてが礼拝になるというものです。日常生活が礼拝とはちょっと落差が一見あるようですけれど、食べ物を食べたりすること、学校に通って勉強するということ、就職してちゃんとまじめに働くということなど、それらの行為はやがて神さまのために働くということにつながります。神さまこそ、すべての栄光を受けるにふさわしいお方です。