キリスト教の理解を求めて

今日、学校に来たらアーメンっていう言葉をなんかキリスト教式お葬式のときに使うようなニュアンスでなんかふざけているような感じのシチュエーションに出くわしてしまった。私がちょっと言ったら「ごめん」って言ってくれたのだけれども、私はべつにそういうのをすぐに「神への冒涜」などと解釈する人ではないので、べつに謝ってもらわなくたって、お互い理解し合えばそれはそれでいいと思う。

それにしても、こういうことはべつな人でも一回同じような経験があったことを思い出した。その人はキリスト教会で結婚式の挙式をした人でさえ、そういうことをしていたのだから、平均的な日本人というのはキリスト教にはまったく縁がないので、キリスト教とは何?、という理解がないのもうなづける。

そもそも違う文化どうし、それぞれの事象について1対1に対応づけることができる、などというのはまったくできない話だと思う。今回の例では、仏教の葬式のナムアミダブツ=キリスト教のアーメン、という話だったけれども、そもそもアーメンという言葉はいろいろなお祈りの終わりに「ほんとうにそうです」という意味合いで使われるものです。

キリスト教というのはいろいろな角度で他のメジャーな宗教とまったく違う。例えば、教祖が十字架につけられたというのはイエスキリストしか居ないわけだし、イスラム教だって彼らの聖典であるコーランクルアーン)によれば、モハメッド(ムハンマド)は天にあげられて死んでないことになっているし、仏教のお釈迦様だって、なんか涅槃の姿に象徴されるように静かに死んでいるし、孔子だって盛大に見送られて死んでいる。そう考えれば、キリスト教というのは他のメジャーな宗教のどんな点にも違っている。教祖が死んで復活しているなどというのもそうだと思う。死んで復活したというのは聖書の世界だけではなくて、史実である。

キリスト教というのは他のメジャーな宗教とまったく断絶していると考えれば、他の宗教の類推や共通点を見いだしてキリスト教というのを理解しようとするのはできない話だと思います。


また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:17)