雀と聖書

5羽の雀は2アサリオンで売っているでしょう。
そんな雀の1羽でも、神の御前には忘れられてはいません。(ルカ12:7)

なんか北海道のすずめが大量に死んでいるというニュースがやっていたというお話を友達から聞いたので、聖書の言葉を思い出してちょっと上のことを言ってみた。するとなんか ''宗教はキライだ'' とかいう感情論でなんか否定しまくりだった。まあ、世の中そういう宗教アレルギーの人はいることはいるだろうとは思う。

でも、宗教というのはそういう表面的な考えじゃ分からない。昔の人たちがどのようにして神さまというものを求めてきて、どのように死というものに対処してきたかというのは、いろいろな宗教を見てもよく分かる。宗教を一概に否定するのは、「自分は死なない」というのを自分の中で思いこんでいる。それに、有限な存在である人間が無限の存在である神さまを完全に理解できるわけがない。そういう存在である人間が「神はいない」などとは言えないのです。

日本にいると宗教的なものはあまりないけれども、そもそも日本にだってキリスト教文化がしっかりとあったりする。年末にあるクリスマスだってあれはサンタさんのプレゼントの日である前に、イエスキリストの誕生日だってことはたいていの人が知っている。それに、日曜日がお休みなのはキリスト教の影響から来ている。

もし、キリスト教を完全に否定するのなら、日曜日を休む理由が無くなって、日曜日だって職場に来て働かなきゃいけなくなる。人間というのは、働くときは働く、休むときは休む。これが神さまの摂理だと思う。それに、北大の Boys, Be ambitious だってクラーク先生の言葉で、クラーク先生から聖書のいろいろな影響が北海道にいたるところにある。

宗教を一概に否定するというのはあまり賢いとは言えないのではないでしょうか。自分は何にも頼らずに生きている、というのはありえないのです。自分が生まれるにあたって、まず母親の存在が必要だったように、生きるのにも死ぬのにも、またその中間にも他の存在が必要だっていうことをあらためて知るというのはとても良いことだと思う。それに、有限な存在である人間を頼るより、無限の存在である神さまに頼るというのは、一見して弱く見えるけれども、誰よりも強い存在だと思います。