非協力的な態度とは

八幡坂 - 函館


日本社会って過度な均一を要求する社会だと感じることがよくある。そりゃ社会はある程度均一でなければ安定はしないし、不安定な社会なんていうのはこりごりである。何をするにしても多少の均一というのは効率性を生み、生産性が高まる。例えば工業の規格なんてそういうものだ。ねじを回すだけなのに、ねじとドライバーの種類がそれぞれ千種類もあったのではたまらない。十数の種類に抑えることにより、違うメーカーどうしのねじとドライバーででもちゃんとねじをまわすことが出来る。規格や均一はある程度、必要である。

しかし、人間は工業品ではないから、完全な均一にすることなど到底できないし、たとえできても無意味である。それこそ北朝鮮のプロバガンダ映像に出てくるような兵隊の足の踏み方のようだ。日本社会は伝統的に均一であるので、違った他者というのは目立ちやすい。目立つだけならまだしも、排除したり挙句の果てには攻撃をしかけたりする。それが子どもの社会で起こったなら、いじめとなってしまう。

そもそも違った人間を同じにすることはできない。だから、信条や行動パターン、趣味など違っていても協力し合うっていうのが社会がうまく回る条件だと思っている。あの人は気に入らないから協力しない、というのではとても非生産的である。でも、日本ではそういう人が少なからずいる。というか、そういうのが多数を占めてきているような気がしてならない。「とりあえず協力をする」というのが無意識にできない人は、相手のよい所を取り入れることができないので、結果として自分の首を絞めていることになってしまう。自分を守るための行動が結果として自分の不利益になるような行動というのははたから見ていてとても愚かなことをしているなあと感じる。人間は違っていてあたりまえなのだから、その上で相互理解をし、そして協力をしなければ生きてはいけない。