生と性

北大クラ会では来る9/20〜22日、聖書合宿をします。講師として関西地区の高木主事をお招きします。合宿はクラ会メンバーでのみ行いますが、合宿2日目夜は特別にオープン企画を開催します。詳細は次のとおりです。


【日時】9月21日(木)18時30分開場、19時開始
【場所】 KGK事務所(札幌・西岡)
【仮題】「生と性」スペシャル企画〜神様から与えられた性について考える〜
【内容】「性」の身近な諸問題(トピック)についてのグループディスカッション

今話題の『生と性』(いのちのことば社)の著者である高木主事ご本人がゲストです。この希少な機会に、参加者一人一人が神様からの賜物である「性」を受けとめ、積極的に管理する責任を主体的に考えたいと思っています。

卒業生会からの参加もありますが、原則として学生対象です。この掲示板を見て興味を持たれた方は、まずはこの書き込みに連絡先を添えて返信してください。

参加される方はできれば『生と性』を読んで、本書をご持参ください。

KGKオープン企画の帰りに反対側のバスに乗ってしまって、ちょっと焦った。じつはちょっとどころじゃなかったりする。タクシーを使おうにもそんなに財布の中身がそんなにあったわけじゃないし、ATMなんかすぐに使えそうにも無かったし、焦った焦った。今度から深夜にバスに乗るときには方向をちゃんと確認してから乗ろうと思う。

さて本題。KGKの集まりでクリスチャンとして聖書の立場に立った生と性について考えようというものであった。6個ぐらいのテーマがあり、その中でディスカッションをするというものだった。私は「結婚前の性的接触」というテーマを選んだ。ようするに婚前交渉という意味で、結婚前に関係を持つのは聖書的にどうか、というものだった。

結論から言うと聖書のどこにも未婚の男女が婚前交渉をはっきりと述べているような箇所はどこにもない。あるのは結婚している男女の関係において、結婚外の関係はダメだ、とは言っている。しかしながら、結局のところ未婚だろうが既婚だろうが結婚の枠組みを外れた関係はどれもダメであることは自明である。また、関係を持つだけではなくて、情欲の目で女性を見ることも、心という内面からダメだという。

医者もキリスト教は禁欲主義だと思っている節もある。

かといって、結婚の中では自由だし、そもそも神様が性をお作りになられたのは堕落前の出来事(創世記の蛇の事件のことね)だし、罪が入ってくるまでは祝福されるべきものだった。罪が入ってきたので「いかがわしい」とかそういう概念が出てきたのだ。

以下、高木主事のメッセージ

生と性

生とは、私たちの命や人生のことである。神様は私たちを祝福し、その存在を愛していらっしゃる。

性とは体だけではなくて、人間の存在をトータルで考える。

両方とも神様のみこころにかなうようにコントロールするのが重要である。クリスチャンとして生きるうえで、「性を管理していく」とは、とても切実な問題である。

結婚前の性的関係

人間は他の動物とは違い、神様のみこころを理解し、選び取っていく(=神様に応答してゆく)存在である。性もまたしかり。性をうまく管理し、よい意味でコントロールするのは重要なことだ。

トロビッシュという人が書いた本の中には、性とは例えではブレーキのようだという。車を運転する上でアクセルのふみ加減よりも、ブレーキのふみ加減のほうがよっぽど重要だし、難しい。アクセルは踏むだけで車が動き出すが、ブレーキの扱い方が下手だと車酔いしてしまう。いけいけどんどんが男らしさなのではなくて、ちゃんと制御するのが男らしさであり、また人間らしさでもある。

ビルキ先生の本では、恋人との間で体の接触が深まれば深まるほど、お互いの言葉がなくなってくる。これが悪循環になってしまうのはいけない。ちゃんとした関係だと、あまり身体的な接触はいらず、むしろ言葉によるコミュニケーションでお互いを深く知ることができ、理解することができるという。女性は体の接触よりもむしろ、内面的な感受性を理解してくれる人のほうを好むという。

クリスチャンとして健全な交際をするには、一線を越えるぎりぎりの手前でずっと留まるのはよくない。簡単に一線を越えられるからである。だから、境界線というものをちゃんとしっかりと決めておき、何歩も下がっているというのが重要である。そしてゆっくりとお互い近づくのがよい。これはあたかもオーケストラの調律である。オーケストラを演奏するにはフルートのような小さな音から大きな音を出す楽器の順番がある。性に関しても同じで、小さな接触から始め、お互いのことをだんだんとよく知り、そして体の接触のような大きなことに進むべきである。