きつい言葉を言う前に

世の中クリスチャンか否かに限らず、みんな自分に同情してほしいと願っている。いや、同情というのは日本語で悪い響きを持つので共感と言い換えた方がよいかもしれない。いずれにせよ、相手が自分の方向に目を向けてくれることを望んでいる。

でも、その割には自分から相手のほうへ目を向けたり注目をしたりせずに、かえってきついことを言い返したりしている。そのきついこと、というのはふつうの状態ではごくふつうで、特別何もバイアスがかかっていない状態であるかもしれない。むしろそのほうが多いと思う。

でも、みな一律の条件で生きているわけではないし、100人いれば100通りの基準がある。それにもかかわらず、自分の基準で相手を見てしまいがちである。「言い訳は聞きたくない」という思いで相手の言い分を遮断してしまうのは、相手を踏みにじるのと同じだと思う。たとえ相手が悪かったとしても、相手の言い分には耳を傾けようと思う。相手のことは相手にしか分からないと思う。